新垣さん

偽ベートーベンの影武者だった新垣さん。
現代音楽の世界では知る人ぞ知る人だったようで、今日のインターネットラジオのクラシックチャンネルから聞こえてくる印象としては、何か悪いことをした・・・という話ではなくて、あの新垣さんが、あんなメロディアスな作曲をしてる!!という驚きの声のほうが大きかったように思います。
(現代音楽の世界では、難解な曲がレベルが高くて、分り易いメロディアスな曲は庶民的というイメージが有るようです。)

詐欺師が、NHKのような権威のあるテレビ局と組んで、心優しい人たちをペテンにかけたという今回の事件ですが、問題の本質は抑えておきたい。

グループで作品を作り上げていくことは、人や物が乏しかった時代ならいざしらず、コミュニケーションやネットワークが濃密な現代では、むしろ当たり前の状況にあります。
偉大な天才がすべてをコントロールするのではなく、個人名が出てこない形で協働した作品作りは今後はさらに当たり前の状況になると思います。

純粋で芸術性の高いものは、なかなか売れない。
これは音楽や美術に限った話ではありません。
売れる文化的なものと、ファインアートは、明確な境界線があります。
売るためには、売れるストーリー、売れる顔、業界のバックアップ、マスコミ対策等そうれはそれで大変な仕事です。
ジブリを見れば解りますが、宮﨑駿さんがどれだけの能力を持っていても、鈴木Pがいなければ、長編商業映画をつくることは不可能なのです。
美術の世界でも、画廊や評論家が、消費者との間にいるからこそ、成り立っていることも同じです。
偽ベートーベンも、詐病をせず、プロデューサーと名乗っていたなら、今でも賞賛されていたと思います。

問題は、売れるストーリーの質の問題だったと思います。
いわゆるテレビが飛びつきそうなストーリーをあらかじめ想定し、自分がそれを演じることで、テレビと二人三脚で成功物語を作り上げたわけです。
もちろん有能な影武者がいたからこそ、その成功がより大きかったと言えます。

ファインアートは、そうした社会的な欲の世界とは一線を引くというのが本来の立場だったはずです。
サイエンスの世界もしかり。
しかし、作り手ではなく、受け手がそれでは満足しない状況があると思います。
ただ美しい音楽ではなく、もう一つ売りになるような事を付加したがる。付加して欲しがるような。
先日の若い女性研究者の偉大な仕事が報道されても、マスコミも消費者も、研究の中身は軽くスルーして、面白そうな付加的な情報を漁っていました。
本物のアーティストや、本物の研究者へのリスペクトが不足し、座を盛り上げる事を仕事にしている芸能人のような役割を彼らに期待している事が、こうした事を誘引してると思います。

本来、純粋でなければならないものに、つい付加的なイメージや価値を付けて見てしまう。
これも仕方がないことかもしれない。
昨年、被曝したピアノのコンサートに行きましたが、楽器の過去の運命が音に影響を与えているとも思えないのですが、何かを求める人のエネルギーでその場は満ちていました。そういう意味では普通のピアノではなかったのです。
元々、日本語の「もの」には、単なる物質としての意味だけでなく、魂や怨霊のような意味もあった。
先日、卑弥呼の鏡が魔鏡であったとの報道がありましたが、まさにそうです。
単なる物質や単なる音楽ではなく、付加的な意味を求めてしまうのは、弥生時代以来の伝統かもしれない。

偽ベートーベンの曲で感動した人は、せめて新垣さんの本来の仕事である現代音楽の曲も聴いてほしい。
音楽の問題は、音楽で落とし前をつけてほしいです。

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