安彦良和&ガンダム/ジャブロー編

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昨日、BSで安彦良和を語る番組がありました。
シリーズモノで、以前、ハイジと宮崎駿を観たことがあった。

今回、「虹のトロツキー」という作品がまな板の上にのるというので楽しみにしていたけど、どちらかというとネガティブな論調で、不完全燃焼だった。

元アニメーターの安彦が漫画家として独特の位置にいる。
漫画家から見れば、ストーリー構成ができていないし、「主題」たるものが明確ではない。登場人物も出てくる必然性の薄い人がまま見受けられる。漫画の手法が古い。等々。

漫画という土俵から語ればそういえるだろうが、安彦はその土俵の上で仕事はしていない。
そのあたりを弁護する役割の人も少なくて、なんとなく平凡な漫画家による安彦へのひがみというムードで終わってしまったことは少し残念だった。

しかしもちろん発見も情報もあり、作品史か知らない人間からすると非常に有益な番組だった。

司馬との類似についても触れられていたが、まさしく同じ感想を持っていた。
要するに司馬は小説家として小説を書いていると言うより、自分の世界を
表現する手段として小説を使っているにしかすぎないということ。
だから、話が完全にそれても平気だし、書きながら調べ、調べるとスジも変わってくるがそれも平気。
知りたくて、調べたくて、そこで発見したこと。それを伝えたい。
だから、書かれたものが非常に広がりがあるものになっている。単なる独立した作品として完結するのではなくて、その作品から大勢の人がイマジネーションを持って、それぞれの人生でそれを発展させている。「広がり感」とも言うべきか。
そこが普通の「小説家」との違いだろう。

安彦も似ている。
彼は絵描きなので、歴史家でも文筆家でもない。いわゆる漫画家業界の人間でもない。
彼の特徴として興味深いのは、アシスタントを使わないということだろう。
どうやら奥さんと息子さんがスクリーントーン貼ったり消しゴム使ったりして手伝ってるらしい。
大量の人員により、時間限定でつくられる集団作業のアニメがあわずに、一人で表現できる世界を漫画にみつけたということだろう。だから漫画も背景から全て一人で筆を使って仕上げてゆくという。
調べることも、丹念に人を訪ねて話を聞く。しかしマニアじゃないから逆に書けていることもあるだろう。
ノモンハン事変は司馬も書くと言いつつ結局書かなかったらしいし。

そして今日、ガンダムTHE ORIGIN8 ジャブロー編を買った。
とりあえず3回読んだ。

昨日、いろんな人が言ったことは非常に思い当たる。
そして触れられなかった「広がり感」
これをあらためて非常に感じた。

ガンダムというストーリーも、これだけ多くの人がその「広がり感」に酔いしれているということの特異さを改めて感じる。
そして、そこを評価する指標がまだ無いということも。

絵にしろ彫刻にしろ「作品」は完結しているべきモノ。という迷信がある。
しかし今はすでにそうではなくなっている。
完結するモノには記名又はサインがあり、責任や栄誉の所在がはっきりしている。
しかし広がっていったモノは独立した生命のように、作家の手を離れてゆく。
著作権も含めて「作品」というもののプライベートとパブリックの定義をもう少し幅広く定義した方がいいのではないか?
と思った二日間だった。

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