日本は昔は海の底だったので、色々な時代に色々な所からやってきたのが、僕たちの先祖となります。
縄文人とDNAが100%一致した人たちが住む村がシベリアにある(アイヌは90%一致、本土の人は70%一致)ことから、ユーラシア大陸北部のマンモスハンターが縄文人だったといわれています。
問題はその後のルーツです。
縄文人が活躍した後に、水稲作農民が大量に移住してきて弥生時代が始まったというのがこれまでの認識でしたが、どうやらその中間があるようです。
中国で鉄が生産されるよりも前に、日本の鉄が発見されています。
インドで作られた鉄だそうです。
縄文時代の狩猟採取が稲作にいきなり変わったような記述の教科書で勉強しましたが、その間に焼畑農業など畑作もあったようです。
そうした鉄を持ち込んだり、焼畑などで畑作を行っていた集団が大量に移住してきた時代が、水田で稲作をやるはるか前にあったようです。
もののけ姫の世界ですね。
水田で稲作をやる集団は、中国南部の呉や越が滅亡したときの移民(遺民)と言われています。タイ、ベトナム系なので漢民族ではありません。
鉄や焼畑を持ってきた人たちは、古代インドの種族のようです。
大野晋さんがいくつも書物を書いていますが、現在スリランカに多く住む古代インドの言語や生活習慣は、現在の日本とも非常に近いということです。(強調しておきますが、現在のいわゆるインド人(アーリア系)は、縁もゆかりもありません。)
ドラヴィダ語の一種のタミル語と日本語は主要な7割程度は意味や用法が一致するということのようです。
正月の習慣、とんど焼き、57577のポエムなど多くの生活習慣や文化も一致します。
もちろん日本と古代インドだけでなく、朝鮮半島の沿岸部もそうした近似する文化が残っているようです。
インダス文明をつくった水の民が、北方の野蛮な騎馬民族であるアーリア人に侵略され、南に移住し、現在はスリランカに多く住んでいると言う状況です。
お盆休みに、図書館でNHKのインダス文明のビデオを借りてきて見ましたが、言われてみると非常に近いものはあります。
黄河文明やメソポタミア文明と違って、絶対的王権のようなものは無く、武器や戦乱の後も少なく、平和で協調した商人中心の文化だったようです。
そうした海の民が、アジアの沿岸部に拠点を作り、商業や交易を司っていたと言う状況だったことはイメージ可能です。
それが日本までやってきて、鉄が豊富な出雲や吉備に大きな国をつくったと推測されます。
空海は中国に渡っていきなり現地の人とコミュニケーションできたと言う話で、それが天才だから・・・と言う話になっています。
しかし、空海の実家の佐伯一族は、讃岐、安芸(佐伯郡)、豊後(佐伯市)という瀬戸内の要所を抑える海の民です。
当時の海洋貿易の標準語であったドラヴィダ語(日本語と7割一致します)を扱えた・・・ということかもしれません。
僕の故郷の川尻には野呂山と言う大きな山があります。
宮島の弥山の兄貴分のような山で、空海が訪れたという話で、現在も弘法寺と言う寺があります。ここの寺を守ってきたのは、川尻の民(半農半漁)ではなく隣の安浦の民で、林業や古くは焼畑を営む集落の人たちだったようです。
いわゆる北方系のルーツはウラルアルタイ地方のモンゴロイドで、蒙古斑が特徴です。最近はモンゴルなどウラルアルタイ語族の力士が活躍していますが、ブルガリア人も元は同じウラルアルタイ系です。
南方系は椰子の実といっしょにカヌーに乗ってやってきたポリネシア系と言うイメージが強いですが、もう少し遡るとインダス文明にまでいきつくようです。
四大文明の中では一番印象が薄かったインダス文明ですが、まさかつながっているとは夢にも思いませんでした。