NORI CHOI

天草物産   
・晩柑 文旦に似たような爽やかな柑橘類。初めて食べました。柑橘類はいろいろ豊富。もぎたての新鮮なのは瑞々しくて美味しい。
・天草陶磁器 知らなかったんだけど、天草には沢山窯元がある。天草陶石は全国の陶石の8割を占めるらしい。道端にその石が山となって積まれていた。この時期、丁度春の陶器市が開催されていて、各窯元で焼き物が並べられお手頃価格になっていたりする。そのひとつを覗いたときに発見したのは、柳宗理の急須と醤油指し。こんなところでつくられているのかあ。おまけに、陶器市価格で安いっ。買いました。思わず沢山買って帰ろうかとも思いましたが、車は荷物でもういっぱいだし、欲をかいてはいけないと思い直しやめときました。こういうのも、縁あってのものだからね。
・イルカウォッチング
イルカ見られますかねっていう問いには、その場所に彼らは住んでるのですから見られないわけないでしょ、ってことでした。イルカ、いましたよー。どこどこ、どこに出てくるの?ってきょろきょろ海面を探していると、あ、あそこだ。そこで歓声がきゃーとあがる。まるで、アイドル登場の場面。わーとかきゃーとか叫びたくなるのだなこれが。何頭かの集団になって、波間にさーっと浮いて出てきてさーっとまた潜っていく。船のすぐ横をぶつかるんじゃないかというぐらいの近さで見られると、その肌のかんじや鼻先や愛嬌のある顔がよくわかる。そのイルカポイントに、さすがのゴールデンウィーク、船がわんさと待機しているわけだ。大きいのやら小さいのやら、人が落ちそうなくらい溢れて乗っているのや、貸し切りの3人様しかいないのやら。で、あイルカ出現となると、いっせいに船がぶわーんとエンジン全開して追いかける。そのエンジン音に刺激されるようにしてまた別のところにイルカ出現。またぶわーんぶわーんと、もう船が右往左往。イルカに少しなれてくると、船同士がぶつからないかということの方が気になる。船を操舵する人によって、ウオッチングの満足度が違うんじゃないかなあ。イルカ、別に餌をもらうでもないのに、船がやってくるとサービスして大変だ。いやでも、船いなくてもこういう生活なのかな。イルカの人間ウオッチング、どう見えているんだか。(PHOTO/イルカにはきっと通じるような気がして、なんとなく小声で話しかけてしまうのであった。)

帰り道、本渡市のあたりまで来ると、ああ現世に帰ってきてしまったと思う。スーパーの大きな看板を見て、いつもはこういうところで生活しているのだと思い知らされる。何もないところで、人の姿もあまり見ることなく、自然の風景をバックに暮らすことがなんと贅沢なことか。人が多く集まるようなところに、心休まる場所なんて無い。休みの日は、人口密度の少ないところに出掛けるに限る。天草って隠れキリシタンしか思い浮かばなかったけど、いい名前どおりの島でした。


キャンプの醍醐味   
久々のキャンプ。今までのテントが天に呪われたテントで必ずや雨に降られ、加えて防水機能ゼロの超安物だったおかげで、精神的にも肉体的にもかなり鍛えられた。でも、もういい大人だし、居住性の「ある」ものを買うべきではないかということで、テント今回新調したのです。いつものことですが、いわゆるキャンプサイトを申し込む気持ちが起きず、ざっとどこにどんなキャンプ場があるのかチェックはしたものの、行ってみてきめようパターン。がしかし、いまひとつ気持ちが決まらない。区画内に収まらないといけないところはやっぱり窮屈だし、まだ夏を前に閉鎖しているところに入り込むのも何かあったときに面倒だし、あきらめてここにしようかと思うところは予約でいっぱいだったし。さてどうしたもんやら。ここで、あきらめたり投げ出したりするか、もうちょっとねばるかで、人生は大きく変わるのである。こんなかんじのところにテントを張りたいのだという、イメージはあるのだ。そういう場所どこかにあるんじゃないかって、何を頼りに思っているのかわからないけど、あきらめられないのだ。それで車でさんざんうろうろして、ついに発見。小さな入江で、浜から少し上がったところにちょっとした芝の広場がある。釣り人が2.3人。テントがひとつ。近所のおじさんに聞いてみれば、町の土地らしい。キャンプしても問題なさそうだ。水はないけどトイレは一応ある。すばらしい。すばらしすぎて心配になるほど。早速テントを張って、お決まりのコース、近場の温泉に入りに行きスーパーでこの土地の物を買い物し、テントに帰ってきて晩ご飯。夕日がばっちり。そう、この天草の西側の浜辺は、夕日の美しさで有名なのである。本当に、天草のお天道様ありがとう。(PHOTO/ここを知っている人たちは皆ここを大事に思っていて、だからめったに人に教えないのだ。)


牛深   
なんのわけあって牛深まで。5月連休ですが、天草下島の道、サンセットラインは快適に走れます。普段の日は、いったい誰が走っているのだろうか。様々な表情を見せる海岸沿いをずっと走って、牛深到着。牛深には何があるのか。レンゾ・ピアノのハイヤ大橋があります。シンプル。よーくよーく見ると、かっこいいじゃん美しいじゃんと見えてきます。普通はこんなふうに洗練させて作れません。この風景。この橋があるのとないのとどう違うか。橋を架けるというのは、すごく精神的な行為ではないだろうか。
橋のたもとには、牛深海彩館。これは内藤廣設計。この人は海関係に強いのかな。この人も構造の人ですね。レンゾ・ピアノのようなイタリア人的豊饒さや洒脱さはないけど、構造をぐいぐいと主役に祭り上げる強肩の持ち主ってかんじで好き。海のもの物産に負けない空間で、大概軟弱な道の駅とはくらべものにならん。
牛深での観光は、船に乗って海中公園へ。船底に海中が見えるような窓がずらっと並び、そこから魚が泳ぐ姿や珊瑚や海月などが観察できる。もう少し海中の透明度が高いといいんだけど、天候や海の状況で見え方が違うのは仕方ないね。それにしても何にしても海が美しい。それにやっぱり海の向こうに何も見えなくて、あるはずのは異国ってのはいいなあ。(PHOTO/レンゾ・ピアノは、どのポジションからこのカーブを決定したのだろうか?)


おばば温泉   
正しくは小浜(おばま)温泉。海沿いの温泉観光地。南国のゆるーいかんじと休みを楽しんでいる人々のにぎわいが、肩の荷をよいしょと下ろしてくれる。でもそんな派手な通りを抜けてせまい路地へ、旅行客ではなくその地で生活している人たちのエリアに入っていく。「ここ!」その風呂屋は、見たことがないくらい古めかしく、どっぷりと時間の澱みをまとっていた。引き戸をがらがらと開けると真ん中には勿論番台。こたつにおばちゃんが座ってる。お金を払うときに、手の届かない場所に置こうものなら、無言でここへおけと指で指し示す。身体の向きひとつ変える気はない、という強い意思のもと番台に上がっているのだ。鍵なんかついていない木製のロッカーに荷物を入れて服を脱ごうとして、何気なく振り返ると、おーここは、番台の向こう男湯の入り口から丸見えだ。いかんいかんと場所を変える。でも、やっぱりそこも見ようと思えば見えるような位置。それに、トイレは女湯の靴脱ぎのところにしかないんだもの。トイレに行きたい男子は女湯の方に来なくてはならないのだ。うーん。でもそれがどうした。そんなことはどうでもいいのだ。私もそう思うよ。中にはいると、まんなかで仕切られた湯船がひとつ。すみっこに洗うための蛇口が三つ。でも水は出てなくて、温泉の湯がちょろちょろとでているのをバケツにためて使う。シャワーは無し。シンプルだ。これが正しい温泉の在り方。高い天井がいい感じになっている。風呂屋の天井って好きだ。常連らしきおばーちゃん度は勿論高い。で、その仕切られた湯船のあっちとこっちと今日はどっちがより熱いかと、ばーちゃんたちは言葉を交わす。たぶん、毎日適当にそれは違うのだろう。だって、私にはどっちが熱いのかよくわからなかったし。どっちにしても、すごーく熱かったのだ。あんなに熱い風呂屋は初めてだった。しかし、富士山の絵ももちろん、「タオルを湯船に入れない」なんていう注意書きも、冷たい飲み物の販売も、何もない。ただ、あつーい湯があるだけだった。それも湧いて出てくるから、ただ。ずーっっと、時間を止めてここに有り続けて欲しい、本当に。あ、風呂屋の名前はわかりません。名前なんか、固有名詞なんか、そんなことどうだっていいじゃないか、って思う風呂上がり。(PHOTO/番台に座る係のじーちゃんが生きている間は営業するらしい。)


長崎は今日も雨だった   
雨というか、細かな波しぶきが霧状態でけむっている港。お目当ての帆船は、帆を閉じてひっそりと佇むのみ。帆船祭りはやっぱり晴れやかな空のもとじゃないとだめね。気を取り直して、出来たばかりの長崎県美術館へ。壁も床もルーバーも石、石。そして、ガラス、水、緑。建築というよりも、それらの素材感。人も多いし、うるさい子連れで展覧会を観る気はないので、美術館としては来年開催される予定のチリダ展(これはおすすめ、楽しみ)までお預けとして、カフェにてお茶タイム。そこの家具や食器までデザインしましたってのは、もうちょっとやりすぎ。金かけすぎ。屋上庭園に上って、芝とヘデラのシンプルな野原は気持ちよかった。次に、せっかくの長崎なのだから、古い洋館の残っている地区へ。坂道を上り下りして、水蒸気の多い空気の中、若葉がわさわさとそよぎ、下見板張りのペンキ塗りの壁に瓦屋根がのっかっている建物などを観察。その中のひとつに、地球館と言う名前で、国際交流の拠点として使っている建物があって、毎日日替わりでいろんな国の人が、お国料理を食べさせてくれる。今日はジャマイカのミッティーさんが、カレーとサラダとバナナケーキを出してくれた。異国情緒を全面に押し出している観光物が溢れる中、普通のおばさんやお姉さんが普通に異国の人と一緒にやっていていいよ、って教えて貰ったのだけど、その通りでした。Tも気に入って、毎日ここに御飯食べに来たいと申しておりました。観光の嫌いな子供はもう耐えられなくなり、グラバー邸も桃カステラも豚まんもトルコライスも眼鏡橋もあきらめ、最後にひとつ、長崎のガウディ(日本二十六聖人殉教地)を見ておしまい。スペイン(?どうかな)の片田舎にありそうな小さな教会は、ステンドグラスなんかもよかったです。(PHOTO/長崎県美術館は隈研吾設計)

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