NORI CHOI

高野文子「黄色い本」ジャック・チボーという名の友人   
講談社

わたしが唯一買ってしまう漫画家。久しぶりに出たのを知って、行き着けない漫画コーナーで目をしばしばさせて見つけました。んー。この時間感覚、視点の離れ業、言葉や絵の余白をこんなに表現できるなんて。ずーっとずーっと何回も読んで、黄色く変色するまで持っていたいと思う。


スコス ステーショナリーズ・カフェ「文房具と旅をしよう」    <HOME>
ブルース・インターアクション

久しぶりに本屋をうろうろしてひろいものした本。知ってる好きなモノは探す手段があるけど、知らない好きなモノは、こうして偶然出会うしかない。
北欧やイギリスなど旅して文房具を買ってくる本。彼らは東京の文房具屋さん。たくさんの写真で紹介されている文房具も本の造り方も好みです。


カンペール 「WABI」   
スペインのカンペールという靴屋がこの秋売り出したライン。人間は室内で過ごす時間の方が圧倒的に多い。室内でも革靴を履いている人たちにとって、果たしてこの靴という存在はどうあるべきか。足を締め付ける靴を履き続けるのはいかがなものか。もっと足がのびのびと生きる手だてはないのか。それでこれ。外履きスリッパみたいな靴。素材は2種類あり。フェルトとゴム(こっちは水仕事の人のため)。ぽっくりしたサボのようなかたち。素材はすべて自然にかえるエコロジー靴。自分の足のサイズではいてみるとかなり大きい。ぶかぶか。脱げそう。走れない。そう走らずに生きるのである。最近のスローフードのごとく、スローワークでいこうではないか。これをはいておうちでしごとして、自転車に乗って(カンペールは木製の自転車を出しているらしい)おでかけするのだ。エコロジー的生活。確かにね。これはいて外に出ると、スリッパはいて外に出てきたような、変な室内との継続感というか、パジャマ来たまま外に出て来ちゃったみたいなゆるいかんじが、からだにあるのね。ぴしーっと緊張感もってばりばりやるぞーって気分の対極。もしかしたら生き方が変わってしまうかもしれない。世の中の人みんながこれ履いたら、世の中のほほんと平和になるんじゃないか。実は、この靴を一目見たとき、誰もがこれを履いて歩いてたらいいなあ、という感じがまずしたんだな。それはコンセプト的に正しい感じ方だったんだと思う。この靴を履くことから生活は変わる。裸足から下駄から草履から、いろんなこと変わってきているはずだから。みんなに履いてもらいたいなあ。最近のデザインを考えるに、もう他との差別化とか珍しいものとかじゃなくて、みんなが一緒にそれをいいと思うようなものが流行とかじゃなくて存在できるといいなと思う。どうぞお試しを。カンペール、がんばってもらいたいから、宣伝します。取扱店は、「HEEL&TOE」(アルパーク店もしくはシャレオ店)


オイリュトミー エルゼ・クリンク・アンサンブル   
11/10 広島アステールプラザ

秋はいろんなイベントがあるので、嬉しいやら辛いやら。ぜんぶにはいけないものね。今年はこれにしました。かれこれ10年くらい前ですか、「イー」とか言って「イ」の格好をしたり、音楽に合わせて歩いたり、うずまきしたり、オイリュトミー入門編は、数回で終わったのですが。舞台は、一度見てみたかったのです。
まずその光の色彩の美しさ。次々に変化する照明が、オイリュトミストの衣装に降りかかり、うっとりするような色彩体験でした。
プログラムの中では、イサン・ユンの「In Balance」がよかった。ほかのクラシックなメロディとは違って、この現代音楽風な作品は、舞台の上が動く抽象絵画のように見えて、その色彩とフォルムが音楽と一緒になって戯れていて、これがオイリュトミーってことかな、って思いました。後のは、実はあまり…。サササーと走って、手がぴらぴらーってうごいて。肘から手首の動き、これが目に焼き付いています。体の動きの表現っていうと、もっとアクロバティックだったり、意表をつくような動きっていうのに、照準が合ってしまっているせいなのか。なんだかこの手首のひらひらが神経質な感じがして、気になってしまったみたい。それと「目に見える言葉の芸術、目に見える音楽の芸術」といわれるような、その言葉、その音自体を表現する動きというのが解ってないので、その動きから感じ取れる情報が少ないこともあったと思う。私が体験した「おー」のからだのオイリュトミーからこの舞台まで、かなり距離がありそうだもの。もっとシュタイナー的にレベルアップしないとわからないのでしょう。でもやっぱり、西洋的なバレエの世界というか、そういう完成度だなって思いました。新しいものというより、伝統芸能?芸術?シュタイナーに関するものって、やっぱりもう固まってる世界なんだなと思う。その道筋を忠実に歩いていこうというかんじ。でもオイリュトミーとしては、どういうところを目指しているのだろう。エーテル体でしょうか。んー、これはまだまだシュタイナー的精進が必要なんだな。
ところで、なんだかなにかをおもいだすなあと思いながら帰ってきたのですが、ずいぶん後になって思い出しました。中学生の時、体育の時間で創作ダンスという課題がありました。5.6人のグループで、決められた音楽に合わせて、踊りを作っていくのです。たいした技量も発想もないので、どのグループも同じような作品(?)になるわけですが、これがいやだったんだなあ。何がいやか。1.全然つまんない音楽。だいたい途中でわけのわかんない転調やリズムにかわって、ここで踊りの流れを変えることを強制される。2.メンバーにはいろんなのがいて、意見をまとめたりなんだりで、気を使ったり、頭に来たり調整が大変。3.とってもとっても気恥ずかしい。そしてあのデザイン的に悲惨な体操服で踊っている姿を、踊りながら自分で第3者的に想像する時、恥ずかしさは倍増。というようなことを一気に思い出したわけです。もっと違う音楽を選べて、衣装もシルクのひらひらしたのをまとったりしたら全然違ったんじゃない。と今更になって思うのでした。体育教師ももっとセンスってのをとりいれるべきだよね。
広島のシュタイナーに関する人々が、大勢集まった夜でした。公演が終わってロビーに出てきた人々を眺めて、何の公演があったのか想像することができない、観客層でした。シュタイナーはおくがふかいね。それぞれの人にとってのそれぞれのシュタイナーがいるってことですね。


「銅版画三人展」   
ひろしま美術館 
9/15〜10/14

長谷川潔、浜口陽三、駒井哲郎である。大御所。版画の世界ってやっぱりとても地味な感じだし、コレクターじゃなきゃわかんないことがいろいろありますが、この三人の世界はやっぱり観ておくべき世界。季節もちょうどいい感じで、静かな気持ちで落ち着いて観られて嬉しかったです。(それはもちろん来場者が少なかったせい。こういうものを観なきゃ。ねえ。)額縁のガラスの反射を避けながら(黒い画面は鑑賞者の顔をガラスに映しだしてしまう)その闇の世界に滑り込む。精神と呼ばれる深い穴蔵があるとして、その底へ底へと潜っていく。そしてその穴蔵の暗闇の奥の方で、小さな明かりを頼りに銅板を切り刻むひとがいる。それが銅板画家。
個人的には駒井哲郎ですが、浜口陽三の50〜60年代の頃のもよかった。アスパラガスとかブドウとか。あのサクランボ以前だな。
駒井哲郎と安東次男の詩画集「人それを呼んで反歌という」が展示されていて、なんども印刷で見ていたけど本物ははじめてだ。展示ケースのむこう、あぁさわりたかった、はがゆかった、この手でこの眼で触れなきゃ。ガラスを通すのと全然違うのよ。版画って量産されるから印刷ものと混同されるけど、あの版に押されてできたマチエールってのは、手にとった距離で眺めることではじめてわかるのだから。昔、画廊に勤めていた頃、額装される前の生の版画作品を存分に味わってた、それは本当に至福の時であったと、今思う。
さらにここに告白しよう。(告白されても仕方ないと思いますが)この詩画集というやつ。これに関して、なぜか私はいてもたってもいられなくなる。気分になる。たぶんこれが、私の精神と呼ばれる穴蔵の鍵穴に、はまるのだろう。扉を開けてその闇に目を凝らして、いつかその謎を解きたいと、そう思っている。

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